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実をいえば、愛ちゃんが独り舞台に挑戦するという話を聞いたときは、随分とまた大変なことに挑戦するものだと思った。つまり、女優としての愛ちゃんにとって、独り舞台を演じきるということがとてつもなく大きなチャレンジに思えたのだ。そのとき私はちょうど話題の舞台を観劇したばかりで、とある舞台女優の持つ迫力に圧倒された直後だったからかもしれない。

しかし、その後、自叙伝「Ai 愛なんて大っ嫌い」を読み終わった途端、「この舞台をこの目で見届けなければいけない」と、なかば使命のような思いにとらわれた。自叙伝は私が想像していた以上にショッキングで、恐ろしいまでに赤裸裸で、そして、いわゆる芸能人のエッセイ本やフォトブックのそれとは全く異なる、センセーショナルなものだった。

感動した」「心揺さぶられた」というありきたりな感想を超えた衝撃のあまり、愛ちゃんに感想の電話ひとつかけられなかったほどだ。
私は、電話でもなくメールでもなく、まずはそれを書き上げた今の愛ちゃんに会いたい、と思った。

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舞台は、その自叙伝をもとにした朗読劇をベースに始まる。一般には、難しい役を演じると「うまい」と言われるものだ。でも本当は、自分自身の役を演じるほうがずっと難しい。自分の話だけをとうとうと語り人の心に迫る—-これほど難しいことはない。

しかし、それをやりのけてしまうのが冨永愛の凄みだ。
まるで耳元でささやかれるような朗読劇。怒り、迷い、恐怖、そして苦しみの中から辛うじて絞り出したような声……冨永愛の朗読は、怖いほどに私たちの心に迫ってきた。

私は、これを「歌」だと思った。

決して大げさにならず、しかし胸をえぐられるような哀しみをたたえた、静かな叫び。彼女のその声が伝える寂しさは、特別な境遇にある人だけが感じる孤独ではなく、私たちの誰もが日常生活の中でふと感じるような孤独感だった。そしてそんなふうに私たちの感情にそっと寄り添うあの声の力は、まさに歌が持つ力にほかならないと感じた。おそらく、脚本を執筆し、朗読の指導をしたのがあの長渕剛さんであることが大きな理由なのだろう。

圧巻の朗読を経て、舞台に現れた彼女は、やはり会場の誰もが息をのむほど美しかった。

言葉のない世界で、身体だけで演じる、表現する、伝える—-その天性の才能こそが、冨永愛の真骨頂だ。これは間違いなく、モデルとして類い稀なボディバランスと、生まれながらに持った表現力を備えた彼女にしかできないことである。舞台に冨永愛が登場するたびに空気は変わり、私たちはその姿に釘付けになった。「冨永愛が、歩く」というその姿に……。モデルとしてあまたのランウェイを歩いてきた彼女が、「歩く」ということをモチーフに、身体いっぱいで物語を表現しているのだから。

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舞台に際した記者会見では、プロデューサーの長渕剛さんと愛ちゃんが、体に重りを付けて鹿児島の山に登った話が披露された。

ありきたりな表現だが、人生は山登りに例えられることが多い。小さい山をいくつも登る人もいれば、大きな山に長い時間をかけて挑む人もいる。しかし人生であれ、実際の登山であれ「自分はこの先、果たして頂上まで行けるのだろうか」という不安の中で、必死に歩みを進める苦しみは同じだ。

では、なぜ人は山に登るのか?

それは、苦労して上った山の頂上から見る景色があまりに美しいからだ。そして、この眺めは自分と、そして大切にしている者たちとともに手に入れたのだと思うことができる、その喜びを知っているからだ。
山を登らなかった人間には一生見えない、その美しい景色。山を登った者だけが知る喜びが、そこにはある。恩師は鹿児島の山で愛ちゃんにその喜びを与えた。

これからも、彼女は一歩一歩、山を登るのだろう。愛する人たちとともに。この舞台は、そんな彼女の決意表明だ。

VOGUE JAPAN エディター 中村真由美